アメブロ版RIN LOG** 多くはスマホから呟き的に使ってます♪
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ジャニス・ジョプリン(歌手)Janis Joplin
1943.1.19--1970.10.4
「ハ-イ! マザ-ファッカ-!」
ジャニス・ジョプリンは、観客に向かって叫んだ。
酒に浸りながら、強いビ-トをきかせたブル-スを歌い、ジャニスは自分が憧れていた
ベッシ-・スミスやビリ-・ホリデイといった歌手と肩を並べるようになった。
二十七歳の短い生涯で、『ポ-ル&チェ-ン』や『ビッグ・ブラザ-・アンド・ホ-ルディング・カンパニ-』『チ-プ・スリル』『コズミッククブル-ズを歌う』『パ-ル』などのアルバムで多くの若者を熱狂させたロックの歌姫。
「ドラッグ、セックス、ロックンロ-ル。これさえあればいい」
一九六〇年代、反抗の象徴でもあったジャニス・ジョプリンはテキサス州ポ-トア-サ-という活気のない町に生まれた。父のセスは石油精製所の監督で、物静かな男だった。母のドロシ-は頑固で几帳面な反面、ビジネス感覚に長けていて、ジャニスはこの母に似ていた。ジャニスは幼いころから、規則や慣習に従わず、そのため苦労をすることが多かった。
ジャニスは芸術的なものに心を惹かれ、読書や絵を描くことが好きだったので、母は作家か画家になると思っていたようだ。
誰もが言うように、ジャニスは驚くほどナイ-ヴでのろまな、それこそ人によく思われるためならどんな誘いにでものってくるような少女だった。
男の子がいつもジャニスを追いかけまわしては、
ジャニスは太りすぎで、ひどいにきび面だったので、「ブタ面」(ピッグ・フェイス)という有り難くないニックネ-ムを頂戴した。美術を専攻したラマ-・カレッジでは「キャンパスで最も醜い人物」に選ばれてひどくショックを受けている。
そうした攻撃から身を守るものが、ジャニスには必要だった。それが大酒、ドラッグ、セックスだったかもしれない。
ジャニスは隣りのルイジアナへと出かけて男みたいに安酒屋(ホンキ-トンク)に入りびたった。ブル-スと出会ったのはそこだった。ジャニスはベッシ-・スミスの物真似をはじめ、カフェや路上などで、酒一杯分で歌った。
ジャニスは家を出て、サンフランシスコを根拠とするロックバンド、ビッグ・ブラザ-・アンド・ホ-ルディング・カンパニ-に加わり、そのリ-ド・ヴォ-カルになった。 ヘルス・エンジェルスと、サンフランシスコを拠点とするいくつかのバンドとのあいだには、連帯感のようなものが芽生えていた。ジェファ-ソン・エアプレイン、グレ-トフル・デッド、なかでもエンジェルスが特に親近感を抱いていたのが、ビッグ・ブラザ-・アンド・ザ・ホ-ルディング・カンパニ-だった。
ジャニスがエンジェルスのメンバ-と親しくなったとしても、それはごく自然なことだった。エンジェルスはつねに、身近な存在であり、またジャニスも、そのころようやく周囲の環境に溶け込んできたところだった。一部で「過激だ」と思われていたとおり、ジャニスはエンジェルスとウマがあっていた。それは彼らのなかに自分と共通する正直さを見たからだった。本能や自分の信じるものに溺れ、クスリを注射し、カ-ドのように男をとっかえひっかえしたとしても、それは彼女があらゆることを経験したいと望んでいたからだ。
ビッグ・ブラザ-なるメンバ-の一人が言う。
「セックスに関しては、まるでお堅いところなんてなかった。ジャニスの望みはただひとつ、さっさとぶっとんじゃおうよ! それだけさ」
第一回モンタレ-・ポップ・フェスティバルでは、ジャニス・フィ-バ-を巻き起こした。
ジャニスはクスリとアルコ-ルを毎日欠かしたことはなかった。それを隠そうともしなかった。彼女はサザンコンフォ-トを愛飲していた。無料で宣伝してやったお礼に毛皮のコ-トを贈れと強要したりしたこともある。彼女の狂気に取りつかれたようなイメ-ジはファンからは崇拝され、プロモ-タ-から疎まれた。
セックスに対する考えも自由奔放で、思うままに行動をした。
「ねえ、楽屋でやろうよ」
こんなときのセックスの相手には十六歳か十七歳の可愛い少年を好んだ。
ストレ-トな表現を使うことで、相手があぜんとしている間に、ものにしてしまうというのがジャニスがもっとも得意とするテクニックだった。
しかし、有名になる以前のジャニスの男性体験は辛い記憶しか残っていない。
故郷テキサスを出てサンフランシスコに来てまもなく、ジャニスは男に振られ、坂を男に引きずられながら歩いたこともある。
「捨てないで、お願い」
また、ジャニスを苦しめた少女時代の屈辱は、彼女の心の中に根強く残っていた。だからジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガーのようなステージができないのだと嘆いていたこともある。
「私は大スターなのにセックスする男さえいない」
と泣きわめくこともあった。
実際には相手はかなりの数におよんだが、同じ男と数回以上ということはなかったようだ。
長い汽車旅行をしたときこんなことを言ったことがある。
「汽車には四百人近くの男がいるのに私がセックスしたのはたったの六十五人だけ」
捨てられるのを極端に恐れたジャニスはオーガズムに達した演技をしていた。
ジャニスが最も真剣につきあったスター歌手はクリス・クリストファーソンだった。ジャニスはクリスを愛した。しかし、ジャニスの愛人の女性(ジャニスはバイセクシャルだった)もクリスを愛してしまい三角関係に苦しむことになった。
ジャニスは人気の絶頂にあるときも、終始淋しげで、本当に自分が望んでいるのは、家庭生活なのだと友人に打ち明けている。
「彼が九時に家を出て行くでしょ、そのとき彼は私のためにだけ、六時には家に帰ってくるって私にはわかるわけ。愛しい男さえいてくれればね。そうすりゃ、私はそいつをとる。ガレ-ジ二つに、テレビ二台つきでね」
ドラッグの量を減らすようにと友人から忠告を受けると、ジャニスはこう答えた。
「大いにやろうよ、私は三十歳までしか生きないんだから」
そう言いながらも、ジャニスは友人の忠告を聞いて、ヘロインの数を減らしたこともある。
ジャニスが舞台に立てば、ひと晩で、億単位のビジネスが成立した。が、彼女は疲れていた。
大観衆を前にして歌う恍惚とその後に押し寄せてくる孤独。
「ステ-ジの上で私は二万五千人もの人びとを愛し、それからたった一人で淋しくホテルに戻るの」
一九七〇年四月、ジャニスはフルティルト・ブギ-・バンドを結成して、当時としては望みうる最高のスタッフを得た。
新しい恋人にも出会って、表情も明かるくなった。
だが、その一方でジャニスは大酒を飲んでいた。アルバムは成功したが、自分のキャリアに不安を抱いて落ち込んでいた。
コンサ-トのできが悪いとなると、さらに落ち込んだ。キャンセルが多くなると、ジャニスはセス・モ-ガンと結婚する計画を立てた(ジャニスは結婚相手とセックスの相手と完全にわけていた)。
そしてまた、ヘロインに手を出したのである。
九月十八日、木曜日にジミ・ヘンドリクスがヘロインの過剰摂取で亡くなったことに、ジャニスはひどくショックを受けた。
「ちくしょう! 先を越されたわ」
自分の将来に対する不安で深刻な鬱状態に陥った。自分は結婚するよりも、死んでしまったほうがいいと思うようになり、結婚の同意書を何度も書き換えた。同時に、遺書も書いた。
土曜日に市役所に電話をかけて結婚証明書について問い合わせをしている。
その同じ日に、めったにないような極めて純度の高い、ヘロインがジャニスの元に届けられた。町をぶらついて、いつものように何杯かひっかけたあとランドマ-クホテルに翌朝の一時ころ戻るのをバンドのメンバ-が確認している。
その一時間後の十月四日の朝に、ジャニスは麻薬の過剰摂取のために死亡した。遺体のそばには、マ-ルボロ一箱と釣り銭とおぼしき四ドル五十セントが残されていた。
意外にもカントリ-・ジョ-(カントリ-・ジョ-・アンド・ザ・フィッシュというグル-プを率いて活躍したロック・ミュ-ジシャン・一九六六年当時、ジャニスの恋人だった)の意見は正反対である。彼はジャニスの死後、『ロ-リング・スト-ン』誌のインタビュ-でこう語っている。
「クスリを打っては大騒ぎをして、叫んで怒鳴ってわめきちらす、みんなそんなジャニスを見たがってた・・・まあ、子どものころにテキサスで何があったか知らないけれども、おれにはこう感じられたんだ。こいつは自分に合わない場所で誤解されてばかりいる場違いな人間だってね」
『ニュ-ズウィ-ク』誌の表紙を飾ることになっていた一九六九年四月七日、ドワイト・アイゼンハワ-(アイク)元大統領が死去した。表紙は、アイクに変更になった。そのときジャニスは言った。
「くそったれ! 何もこの週にくたばらなくたって、あたしの週だったんだよ」
憎んでる あたしを憎んでる
まるで世界中のみんながひとり残らず
あたしを憎んでるみたい
(『ダウン・オン・ミ-』)
修正した遺言書に署名したのは、死の二日前だった。「カリフォルニア州サン・アンセルモのパブ(彼女のお気に入りだった)で夜通しパ-ティを開くこと」
遺産は二千五百ドル。
「それだけあれば、私が逝っても、ガンガンやれるでしょ」
友人二百人が集まって、ジャニスのために一晩中、飲み明かした。
2012年04月22日 20:52
ジャニス・ジョプリン(歌手)Janis Joplin
1943.1.19--1970.10.4
「ハ-イ! マザ-ファッカ-!」
ジャニス・ジョプリンは、観客に向かって叫んだ。
酒に浸りながら、強いビ-トをきかせたブル-スを歌い、ジャニスは自分が憧れていた
ベッシ-・スミスやビリ-・ホリデイといった歌手と肩を並べるようになった。
二十七歳の短い生涯で、『ポ-ル&チェ-ン』や『ビッグ・ブラザ-・アンド・ホ-ルディング・カンパニ-』『チ-プ・スリル』『コズミッククブル-ズを歌う』『パ-ル』などのアルバムで多くの若者を熱狂させたロックの歌姫。
「ドラッグ、セックス、ロックンロ-ル。これさえあればいい」
一九六〇年代、反抗の象徴でもあったジャニス・ジョプリンはテキサス州ポ-トア-サ-という活気のない町に生まれた。父のセスは石油精製所の監督で、物静かな男だった。母のドロシ-は頑固で几帳面な反面、ビジネス感覚に長けていて、ジャニスはこの母に似ていた。ジャニスは幼いころから、規則や慣習に従わず、そのため苦労をすることが多かった。
ジャニスは芸術的なものに心を惹かれ、読書や絵を描くことが好きだったので、母は作家か画家になると思っていたようだ。
誰もが言うように、ジャニスは驚くほどナイ-ヴでのろまな、それこそ人によく思われるためならどんな誘いにでものってくるような少女だった。
男の子がいつもジャニスを追いかけまわしては、
ジャニスは太りすぎで、ひどいにきび面だったので、「ブタ面」(ピッグ・フェイス)という有り難くないニックネ-ムを頂戴した。美術を専攻したラマ-・カレッジでは「キャンパスで最も醜い人物」に選ばれてひどくショックを受けている。
そうした攻撃から身を守るものが、ジャニスには必要だった。それが大酒、ドラッグ、セックスだったかもしれない。
ジャニスは隣りのルイジアナへと出かけて男みたいに安酒屋(ホンキ-トンク)に入りびたった。ブル-スと出会ったのはそこだった。ジャニスはベッシ-・スミスの物真似をはじめ、カフェや路上などで、酒一杯分で歌った。
ジャニスは家を出て、サンフランシスコを根拠とするロックバンド、ビッグ・ブラザ-・アンド・ホ-ルディング・カンパニ-に加わり、そのリ-ド・ヴォ-カルになった。 ヘルス・エンジェルスと、サンフランシスコを拠点とするいくつかのバンドとのあいだには、連帯感のようなものが芽生えていた。ジェファ-ソン・エアプレイン、グレ-トフル・デッド、なかでもエンジェルスが特に親近感を抱いていたのが、ビッグ・ブラザ-・アンド・ザ・ホ-ルディング・カンパニ-だった。
ジャニスがエンジェルスのメンバ-と親しくなったとしても、それはごく自然なことだった。エンジェルスはつねに、身近な存在であり、またジャニスも、そのころようやく周囲の環境に溶け込んできたところだった。一部で「過激だ」と思われていたとおり、ジャニスはエンジェルスとウマがあっていた。それは彼らのなかに自分と共通する正直さを見たからだった。本能や自分の信じるものに溺れ、クスリを注射し、カ-ドのように男をとっかえひっかえしたとしても、それは彼女があらゆることを経験したいと望んでいたからだ。
ビッグ・ブラザ-なるメンバ-の一人が言う。
「セックスに関しては、まるでお堅いところなんてなかった。ジャニスの望みはただひとつ、さっさとぶっとんじゃおうよ! それだけさ」
第一回モンタレ-・ポップ・フェスティバルでは、ジャニス・フィ-バ-を巻き起こした。
ジャニスはクスリとアルコ-ルを毎日欠かしたことはなかった。それを隠そうともしなかった。彼女はサザンコンフォ-トを愛飲していた。無料で宣伝してやったお礼に毛皮のコ-トを贈れと強要したりしたこともある。彼女の狂気に取りつかれたようなイメ-ジはファンからは崇拝され、プロモ-タ-から疎まれた。
セックスに対する考えも自由奔放で、思うままに行動をした。
「ねえ、楽屋でやろうよ」
こんなときのセックスの相手には十六歳か十七歳の可愛い少年を好んだ。
ストレ-トな表現を使うことで、相手があぜんとしている間に、ものにしてしまうというのがジャニスがもっとも得意とするテクニックだった。
しかし、有名になる以前のジャニスの男性体験は辛い記憶しか残っていない。
故郷テキサスを出てサンフランシスコに来てまもなく、ジャニスは男に振られ、坂を男に引きずられながら歩いたこともある。
「捨てないで、お願い」
また、ジャニスを苦しめた少女時代の屈辱は、彼女の心の中に根強く残っていた。だからジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガーのようなステージができないのだと嘆いていたこともある。
「私は大スターなのにセックスする男さえいない」
と泣きわめくこともあった。
実際には相手はかなりの数におよんだが、同じ男と数回以上ということはなかったようだ。
長い汽車旅行をしたときこんなことを言ったことがある。
「汽車には四百人近くの男がいるのに私がセックスしたのはたったの六十五人だけ」
捨てられるのを極端に恐れたジャニスはオーガズムに達した演技をしていた。
ジャニスが最も真剣につきあったスター歌手はクリス・クリストファーソンだった。ジャニスはクリスを愛した。しかし、ジャニスの愛人の女性(ジャニスはバイセクシャルだった)もクリスを愛してしまい三角関係に苦しむことになった。
ジャニスは人気の絶頂にあるときも、終始淋しげで、本当に自分が望んでいるのは、家庭生活なのだと友人に打ち明けている。
「彼が九時に家を出て行くでしょ、そのとき彼は私のためにだけ、六時には家に帰ってくるって私にはわかるわけ。愛しい男さえいてくれればね。そうすりゃ、私はそいつをとる。ガレ-ジ二つに、テレビ二台つきでね」
ドラッグの量を減らすようにと友人から忠告を受けると、ジャニスはこう答えた。
「大いにやろうよ、私は三十歳までしか生きないんだから」
そう言いながらも、ジャニスは友人の忠告を聞いて、ヘロインの数を減らしたこともある。
ジャニスが舞台に立てば、ひと晩で、億単位のビジネスが成立した。が、彼女は疲れていた。
大観衆を前にして歌う恍惚とその後に押し寄せてくる孤独。
「ステ-ジの上で私は二万五千人もの人びとを愛し、それからたった一人で淋しくホテルに戻るの」
一九七〇年四月、ジャニスはフルティルト・ブギ-・バンドを結成して、当時としては望みうる最高のスタッフを得た。
新しい恋人にも出会って、表情も明かるくなった。
だが、その一方でジャニスは大酒を飲んでいた。アルバムは成功したが、自分のキャリアに不安を抱いて落ち込んでいた。
コンサ-トのできが悪いとなると、さらに落ち込んだ。キャンセルが多くなると、ジャニスはセス・モ-ガンと結婚する計画を立てた(ジャニスは結婚相手とセックスの相手と完全にわけていた)。
そしてまた、ヘロインに手を出したのである。
九月十八日、木曜日にジミ・ヘンドリクスがヘロインの過剰摂取で亡くなったことに、ジャニスはひどくショックを受けた。
「ちくしょう! 先を越されたわ」
自分の将来に対する不安で深刻な鬱状態に陥った。自分は結婚するよりも、死んでしまったほうがいいと思うようになり、結婚の同意書を何度も書き換えた。同時に、遺書も書いた。
土曜日に市役所に電話をかけて結婚証明書について問い合わせをしている。
その同じ日に、めったにないような極めて純度の高い、ヘロインがジャニスの元に届けられた。町をぶらついて、いつものように何杯かひっかけたあとランドマ-クホテルに翌朝の一時ころ戻るのをバンドのメンバ-が確認している。
その一時間後の十月四日の朝に、ジャニスは麻薬の過剰摂取のために死亡した。遺体のそばには、マ-ルボロ一箱と釣り銭とおぼしき四ドル五十セントが残されていた。
意外にもカントリ-・ジョ-(カントリ-・ジョ-・アンド・ザ・フィッシュというグル-プを率いて活躍したロック・ミュ-ジシャン・一九六六年当時、ジャニスの恋人だった)の意見は正反対である。彼はジャニスの死後、『ロ-リング・スト-ン』誌のインタビュ-でこう語っている。
「クスリを打っては大騒ぎをして、叫んで怒鳴ってわめきちらす、みんなそんなジャニスを見たがってた・・・まあ、子どものころにテキサスで何があったか知らないけれども、おれにはこう感じられたんだ。こいつは自分に合わない場所で誤解されてばかりいる場違いな人間だってね」
『ニュ-ズウィ-ク』誌の表紙を飾ることになっていた一九六九年四月七日、ドワイト・アイゼンハワ-(アイク)元大統領が死去した。表紙は、アイクに変更になった。そのときジャニスは言った。
「くそったれ! 何もこの週にくたばらなくたって、あたしの週だったんだよ」
憎んでる あたしを憎んでる
まるで世界中のみんながひとり残らず
あたしを憎んでるみたい
(『ダウン・オン・ミ-』)
修正した遺言書に署名したのは、死の二日前だった。「カリフォルニア州サン・アンセルモのパブ(彼女のお気に入りだった)で夜通しパ-ティを開くこと」
遺産は二千五百ドル。
「それだけあれば、私が逝っても、ガンガンやれるでしょ」
友人二百人が集まって、ジャニスのために一晩中、飲み明かした。
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